鯖街道ストーリー
かつて若狭湾で獲れた鯖などの物資を京へ運ぶ時に利用された「鯖街道」。
鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れた鯖は行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれました。
板屋一助が1767年に著した『稚狭考』によると、本来は能登沖の鯖が有名で、それがとれなくなり、若狭の鯖が有名になったということのようです。
若狭から京へ。それらを運んだ鯖街道は1本だけでなく、5本とも6本とも・・言われています。
そのルートは、小浜から上中町の熊川宿を経由、滋賀県の朽木村から京都大原に至る「若狭街道」、京都へ最短距離で結ぶ「針畑峠越え」や、熊川から滋賀県の琵琶湖のほとりの今津に至る「九里半越え」、そして多数の峠を越える「鞍馬街道」など様々。
冷凍技術のなかった当時は、生サバを塩でしめて陸送する方法が取られ、京都まで輸送するのに丸1日を要していましたが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心にとても重宝されたと言われています。
夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったとも言われていますが冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされているため京の都人にとって、冬に若狭より運ばれた鯖は、とても喜びに満ちた食材であったと言われています。
冷凍技術のなかった当時は、生サバを塩でしめて陸送する方法が取られ、京都まで輸送するのに丸1日を要していましたが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心にとても重宝されたと言われています。
夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったとも言われていますが冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされているため京の都人にとって、冬に若狭より運ばれた鯖は、とても喜びに満ちた食材であったと言われています。
若狭から運ばれたものは鯖だけでなく、アマダイ(グジ)や、イカ、カレイなどいろいろな海産物や文化が運ばれ、 そして京からも雅やかな文化や工芸品などが小浜に入ってきました。
若狭から京都へ至る多数の街道や峠道には、本来それぞれ固有の呼び名がありますが 、鯖をはじめとする多くの海産物や物資を運び、文化交流の道ともなった街道を、これらの道を 総称して近年「鯖街道」と呼ぶようになりました。
そんな歴史深い鯖街道沿いには、今も鯖寿司を売るお店が多くあり、京都市内にも鯖寿司を売る店が現在もたくさん点在している訳はこの鯖の運搬が起点と言われています。
若狭から京都へ至る多数の街道や峠道には、本来それぞれ固有の呼び名がありますが 、鯖をはじめとする多くの海産物や物資を運び、文化交流の道ともなった街道を、これらの道を 総称して近年「鯖街道」と呼ぶようになりました。
そんな歴史深い鯖街道沿いには、今も鯖寿司を売るお店が多くあり、京都市内にも鯖寿司を売る店が現在もたくさん点在している訳はこの鯖の運搬が起点と言われています。
その中でもっとも盛んに利用されたのが、小浜から熊川宿を通り滋賀県朽木村を通って、大原から鯖街道の終点といわれる出町に至る若狭街道です。この道では大きな荷物を馬借という馬による輸送を行っていたようです。
さらには、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から今津に出て、琵琶湖を使って京へ運んだ水路もありました。
この水路を利用してのルートでは、海産物だけでなく、琵琶湖で捕れる淡水魚も合わせて運搬された為とても喜ばれたとされています。
さらには、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から今津に出て、琵琶湖を使って京へ運んだ水路もありました。
この水路を利用してのルートでは、海産物だけでなく、琵琶湖で捕れる淡水魚も合わせて運搬された為とても喜ばれたとされています。
鯖街道のルート
【水路】
■九里半街道
■琵琶湖経由のルート
【陸送】
■西近江路
■若狭街道・敦賀街道(花折峠・大原ルート)
■鞍馬街道(根来・針畑ルート)
■雲ケ畑街道
■小浜街道
■高浜街道・周山街道(西の鯖街道)などがあります。
琵琶湖経由のルートは、
小浜から琵琶湖北西岸の今津(現・高島市今津町)へ抜け、琵琶湖上の水運を経由して大津まで行き、京都へ至るルート。
古代は勝野(現・高島市勝野)や木津(現・高島市新旭町)などが、鎌倉時代以降は今津を主な水陸中継地としていました。(現・今津港)
のちに、豊臣秀吉が若狭往還の荷物をすべて今津経由とするなどの庇護を受けたほか、若狭街道が朽木方面へ折れる道をさらに直進し今津へ至る道(九里半街道)が整備され、伏見城築城のための資材輸送にも利用されました。
なお、湖上から京都への陸揚げは山中越を介して最短となる坂本が利用されたていましが、のちに豊臣秀吉が伏見や大坂への利便性が高い大津を保護し、坂本などから移した船をあわせて大津百艘船を組織しました。
他にも西近江路と呼ばれるルートもあり、こちらは、今津から琵琶湖の西岸を陸路で辿るルートで、おおむね現在の国道161号に該当します。
■九里半街道
■琵琶湖経由のルート
【陸送】
■西近江路
■若狭街道・敦賀街道(花折峠・大原ルート)
■鞍馬街道(根来・針畑ルート)
■雲ケ畑街道
■小浜街道
■高浜街道・周山街道(西の鯖街道)などがあります。
琵琶湖経由のルートは、
小浜から琵琶湖北西岸の今津(現・高島市今津町)へ抜け、琵琶湖上の水運を経由して大津まで行き、京都へ至るルート。
古代は勝野(現・高島市勝野)や木津(現・高島市新旭町)などが、鎌倉時代以降は今津を主な水陸中継地としていました。(現・今津港)
のちに、豊臣秀吉が若狭往還の荷物をすべて今津経由とするなどの庇護を受けたほか、若狭街道が朽木方面へ折れる道をさらに直進し今津へ至る道(九里半街道)が整備され、伏見城築城のための資材輸送にも利用されました。
なお、湖上から京都への陸揚げは山中越を介して最短となる坂本が利用されたていましが、のちに豊臣秀吉が伏見や大坂への利便性が高い大津を保護し、坂本などから移した船をあわせて大津百艘船を組織しました。
他にも西近江路と呼ばれるルートもあり、こちらは、今津から琵琶湖の西岸を陸路で辿るルートで、おおむね現在の国道161号に該当します。
鯖街道MAP
若狭から京都へ至る多数の街道や峠道には、本来それぞれ固有の呼び名がありますが 、鯖をはじめとする多くの海産物や物資を運び、文化交流の道ともなった街道を、これらの道を 総称して近年「鯖街道」と呼ばれるようになりました。
その中でも、最も盛んに利用された道は、小浜から熊川を経由して滋賀県の朽木を通り、京都の出町柳に至る「若狭街道」です。
これ以外にも、多くの道がありますが、この中で京都への最短距離をとる峠道として「針畑越え」があり、小浜から熊川を経由し滋賀県の今津に至る「九里半越え」も古代からの歴史があり、のちの西近江路につながる重要な道です。
「九里半越え」のこのルートは、鯖などの海産物はもちろん、豊臣秀吉が伏見城を建築するに当たり資材の運搬にも使用されました。
日本海から琵琶湖の舟運を利用し、琵琶湖で取れる淡水魚も合わせ豊富な食料や物資を運んだ距離も短く、舟を利用した「九里半越え」ルートは、若狭から京・大坂をつなぐ最も重宝したルートと言われ、労力が少なくすみ短時間での運搬が可能となった為多くの物資と人が行き交ったと言われています。
これ以外にも、多くの道がありますが、この中で京都への最短距離をとる峠道として「針畑越え」があり、小浜から熊川を経由し滋賀県の今津に至る「九里半越え」も古代からの歴史があり、のちの西近江路につながる重要な道です。
「九里半越え」のこのルートは、鯖などの海産物はもちろん、豊臣秀吉が伏見城を建築するに当たり資材の運搬にも使用されました。
日本海から琵琶湖の舟運を利用し、琵琶湖で取れる淡水魚も合わせ豊富な食料や物資を運んだ距離も短く、舟を利用した「九里半越え」ルートは、若狭から京・大坂をつなぐ最も重宝したルートと言われ、労力が少なくすみ短時間での運搬が可能となった為多くの物資と人が行き交ったと言われています。
若狭から運ばれた鯖が京の都に着く頃には、ちょうどよい塩加減になったと言われ、
京都の食文化の中に今も若狭の魚が生きています。なお、若狭の鯖は遠く兵庫県の篠山までも運ばれていました。
さらには、「九里半越え」で届く琵琶湖で捕れた魚はとても珍しく貴重として、京都や大阪の人に喜ばれました。
京都の食文化の中に今も若狭の魚が生きています。なお、若狭の鯖は遠く兵庫県の篠山までも運ばれていました。
さらには、「九里半越え」で届く琵琶湖で捕れた魚はとても珍しく貴重として、京都や大阪の人に喜ばれました。